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アサヒカメラの90年 第5回写真雑誌の思想戦

2025-09-18||鳥原 学

アマチュアへの締め付け

1934(昭和9)年3月号に「写壇の権威をあつめて写真の動向を語る」という座談会が収録されている。出席者は福原信三、江崎清、森芳太郎、秋山轍輔、田中敏男、板垣鷹穂、山脇巌、谷口徳次郎、東京朝日新聞社からは編集長星野辰男と計画部長成沢玲川の計10名。ここで新興写真運動が発祥の地であるドイツで終息したことが話題に上る。秋山が前年政権をとったナチスの弾圧でバウハウスが解散してモホリ=ナギも難しい立場になったと語り、さらに森が日本でも同様の事態が起きるのではと懸念を表明した。

「お膝元の日本も、ナチスのように表面立っての圧迫は来ないでせうが、全体としての人心が日本精神の高調といふ方に向って居りますから、これが極く自由な作家の発達を必ず拘束して行く、一種の日本型に、―我々の余り好まない型にはめていきやしないか、と案じて居ります」

対して成沢は、「日本人は中庸を得た国民」だから「極端まで触れない」だろうと返す。

「随分ファッショの心配もあるやうですが、僕等はその心配はないと思ふ。芸術にまで干輿されるといふやうなことが、若しあるとすれば、勃然として反発するだけの輿論が起こることゝ思ひます」

だが3年後に日中戦争が始まると、森の懸念はまず経済面から現実になった。8月には北支事件特別税として撮影機材や感光材料に20%の税金が課せられ、翌月にはカメラの輸入が軍や研究機関関係に制限された。以降、旧満州や中国を通じての裏口輸入はあったが、当然価格は高騰した。

さらに12月に首都南京が落ちても国民政府は降伏せず、予想外の長期戦になった。そこで翌年4月、近衛内閣は国民総動員法を制定し戦時経済体制へと移行、政府の統制下でぜいたくな写真趣味はさらに萎縮した。ただ、皮肉にもこの統制が国内メーカーを育て、戦後の写真産業の発展の基礎ともなる。戦争の長期化はその遂行目的も変質させた。それはスローガンによく表れていて、当初の「暴支膺懲(ぼうしようちょう)」から、日本・中国・満州の協調による「東亜新秩序の建設」が叫ばれるようになる。戦争が「聖戦」と称され、思想戦の側面が強調された。

日中戦争によって委員会から昇格した内閣情報部が、その思想戦のためにあらゆるメディアを指導管理するなかで、報道写真の積極的活用を始める。当時、写真を使った宣伝戦において日本は遅れているという危機感が政府や軍部、そして新聞社などに共有されていたからである。ことに36年にアメリカで創刊された週刊グラフ誌「ライフ」(タイム社)には、中国における日本軍の行為を非難するルポがたびたび掲載され、日本を非難する国際世論を喚起していた。

内閣情報部は38年1月に、国民啓発の国策グラフ誌「写真週報」を創刊、木村伊兵衛や土門拳など報道写真家を起用する一方、掲載写真を国民からも広く募集した。集められた写真は同誌に掲載するほか、対外宣伝にも使うのである。

写真の活用が重要視されるなかで、アマチュアたちにも「写真報国」や「カメラ報国」が求められるのは当然だった。ただ、そこには厳しい制限が設けられた。防諜を目的とする軍機保護法や要塞地帯法などで撮影制限が強められ、検閲も強化された。ときには思想警察である特別高等警察に拘引されたものもいた。

報道と前衛

本誌を含め、写真雑誌は当局の方針に進んで協力した。誌面には戦地で撮られた報道的な作品が特集され、記事では報道写真や戦線将士への写真慰問の奨励、日本精神の発揮、国産品使用の推進などがより目立つようになった。

時系列的にみると、南京陥落直後に編集された38年2月号には、南京攻城戦で殉職した26歳の写真部員濱野嘉夫の戦場写真をまとめた「事変写真集 故濱野君の『戦争したフイルム』」が大きく扱われている。3月号では時局下の写真業界の動向をまとめた「支那事変と写真」、美術評論家柳亮による「戦争グラフの心理性とその効果(事変と報道写真)」が掲載された。4月号では「文壇人の戦線写真集」が組まれ、従軍した西條八十、林芙美子、大宅壮一、吉屋信子ら作家の写真が直筆原稿とともに紹介された。さらに伊奈信男が「対外宣伝写真論」を書いて、組写真による報道写真こそ「対外宣伝手段としても、最も強力であり適当なものとなり得る」と説いている。

国家総動員法公布を受けた5月号の特集は「写真と宣伝」で、内閣情報部長の横溝光暉が「思想戦と写真」を寄せ「(読者)諸君の腕と機械と設備はいつでも銃後の戦士になり得ることを提唱したい」と宣伝写真の制作を呼びかけた。10月号の特集「報道写真」では渡辺義雄や図案家の原弘という、対外宣伝の実践者たちが「ライフ」の誌面づくりを詳細に分析、極めて高く評価している。また9月号には読者から募集した写真による小冊子「銃後の感謝」が付録されている。都市風景は少しで、女性が田畑で働きつつ家庭を守り、子どもたちが日の丸を振って遊ぶ姿が多く、これぞ求められる慰問写真という典型が示されている。

こうして宣伝と報道への傾斜を強める一方で、芸術表現の新しい傾向がいっときクローズアップされた。シュールレアリスム芸術の思想に基づく「前衛写真」である。

まず7月号でアシヤ写真サロンが、8月号では丹平写真倶楽部と浪華写真倶楽部の傑作集が紹介され、続く9月号の「全関西写真連盟競技傑作集」でも前衛写真とみられる作品が多数含まれている。しかもナゴヤフォトアバンガルド倶楽部の坂田稔が「初歩者のための前衛写真の通俗的解説」を7ページにわたって記したのは、この時期において唯一、芸術写真家たちの成果である。

このように前衛写真は関西写壇から広がりを見せたムーブメントといえる。それが、この年には東京でも「フォトタイムス」誌の後援で、かねてアジェやブラッサイを高く評価していた美術評論家の瀧口修造を中心に、永田一脩、奈良原弘、濱谷浩、田中雅夫らによって前衛写真協会が結成された。

瀧口が同誌38年11月号に寄せた「前衛写真試論」では、カメラによって意図的に現実をゆがめる以上に、客観的な「記録性」の重要さが説かれている。記録とは「自然や生活の中から見出した影像を複製することではなくて、熾烈な証拠を示す」ことであり、「新しい実在性と美の証拠を発見せしめる」からだ。さらに、この「記録性の精神の確立」は、国策における報道写真の基礎をなすだろうともして、時局への配慮を示した。

だがこうしたアピールに効果はなく、前衛写真は広がらなかった。「前衛」や「アバンガルド」という言葉自体が、否定すべき共産主義思想を連想させたからだ。そこで翌年にはナゴヤフォトアバンガルド倶楽部が「名古屋写真文化協会」に、前衛写真協会が「写真造形研究会」へと改称を余儀なくされ、活動は下火になった。

戦地にて

長引いて日常化した戦争、それ自体をテーマとして、報道写真家や有力なアマチュア写真家たちは作品を発表した。もちろん彼らの作品は国策に沿った報道的なもので、従軍文士たちが「ペン部隊」として文芸界で果たしたのと近い役割を担ったといえる。

38年11月号から翌年5月号まで連載された、金丸重嶺の「漢口攻略写真従軍日記」はこの点を強く意図したルポである。金丸は9月から2カ月間従軍し、破壊された町や難民、そして日本軍の部隊の様相を写真と文章でつづった。だがそこに彼らしいシャープな切り口は見られず、淡々とした描写に終始しているのは、検閲や自粛のためだろうか。

この従軍中、金丸は名取洋之助や白木俊二郎ら「プレス・ユニオン」の一行としばし同行した。プレス・ユニオンとは、名取が中国派遣軍の肝いりで上海に設立した宣伝用の通信社。この連載の最後は、そのカメラマンだった白木が漢口の激戦で殉職したことへの哀悼で締めくくられている。その言葉は簡潔だが、言いようのない苦さに満ちたものだ。

39年には、福田勝治「鮮満風物写真行脚」(3月号)、小石清「南支従軍写真集」(5月号)、堀野正雄「満蒙支点描」(9月号)、「大陸写真家傑作集」(10月号)などが掲載された。これらは戦場ではなく現地の民俗文化や日常生活をそれぞれの作風のなかで描写したもので、民族の相互理解による「東亜新秩序の建設」を啓蒙する役割を担っている。

40年になると、出征兵士が撮影した写真が掲載されたり、戦地での現像法などが解説されたりし始める。口火を切ったのは2月号の特集「カメラと兵隊」で、『麦と兵隊』で知られる火野葦平が広東省に出征したおりの撮影体験を語っている。火野によれば写真好きの将士はカメラを背嚢(はいのう)に入れて大陸各地を転戦し、記念のポートレートやスナップなどをよく撮っていたという。

まさに火野自身もその一人であり、この号から彼の写真による「僕のアルバム」が連載された(12月号まで)。その写真は前記の金丸の写真よりもフランクで、戦地の日常的雰囲気をよく伝えている。

5月号では「帰還勇士の戦線写真懸賞」の入選作品が発表されている。それらの写真はみな明るいが、別頁の九州のアマチュア江頭茂による「写真が出来ないといふことについて」という妙な雰囲気の手記が興味深い。江頭は戦地では盛んに撮影したものの、負傷して除隊してから全く写真が撮れなくなり「何な画集をみても、本当の事が解らん」と呟く。それは語ることの許されなかった、帰還兵たちのトラウマさえ連想させる。

ナショナリズムを鼓舞せよ

表現の可能性が報道写真に収束するなか、2人の新しい写真家が注目された。同じ1909(明治42)年生まれ、報道写真家の土門拳と信州の童画家谷元一である。

日本工房に所属していた土門は「報道写真家はカメラをペンとした文明批評家」だと主張して、38年7月に藤本四八、杉山吉良、濱谷浩、田村茂、林忠彦らと青年報道写真研究会を結成。同年の「ライフ」9月5日号には彼のクレジットで、宇垣一成外相のフォトルポが掲載されたこともあって一頭地抜けた存在と目された。ただし「ライフ」のクレジットは日本工房にとってルール違反で、同社を辞職する原因ともなった。翌年、土門は国際文化振興会の嘱託に転身すると、室生寺の撮影を始めるなど独自の道を歩きだす。

一方、熊谷は郷里の會地村(現長野県阿智村)の暮らしを2年にわたり記録した『會地村 一農村の写真記録』を、38年末に朝日新聞社から出版して絶賛された。本書はもともと村史を調べていた熊谷が、本誌で批評や展評を執筆していた美術評論家板垣鷹穂の著書から影響を受けて個人的に制作を始めたものだった。熊谷からの手紙でそれを知った板垣は、作業を全面的にサポートし、出版にまで至らせたのだった。

本書が反響を呼んだのは、板垣を含め、当時の写真関係がそこにアマチュアに求めていた理想を見いだしたからである。それはナショナリズムの高揚にも資する、郷土愛をもとにした報道写真の実践だった。翌年、本書の成功によって熊谷は拓務省の嘱託写真家となり、満蒙開拓青少年義勇軍や移民の姿を日本と満州各地で記録している。

土門と熊谷は41年5月号の座談会「日本精神と写真の行くべき道」で初めて顔を合わせている。その席で「ただ村のためになるやうな仕事」をしたかったと述べる熊谷に対し、土門は各地のアマチュアがこれに続かないのは「(郷土への)愛を持っている人が少ない」からだと嘆いた。

さて、この間、欧州ではすでに大戦が始まっていた。39年9月にドイツ軍はポーランドに侵攻し、翌年6月にはフランスに勝利した。3カ月後には日本・ドイツ・イタリアで三国軍事同盟が締結された。

すでに日中戦争後から、ナチスの効率的な写真活用を好意的に紹介するグラビアや記事は増えていた。時系列的には小島威彦「ナチスの写真政策」(38年6月号)、「海外グラフ傑作集 ナチスの少年教育」(同11月号)、「ヒトラーと少年少女」(39年3月号)、須地文三「PK隊の使命とその活動」(40年11月号、PK隊は宣伝中隊のこと)などである。それがフランスを敗北させた直後には28ページを費やした「ヒトラー写真伝」(40年7月号)や「空・海に獨軍の威力」(同8月号)など、ドイツの独裁者への礼賛と連帯を強めた。

友邦ドイツの快進撃を背景に、国内では政党が解散して10月に大政翼賛会が発足。全体主義に基づく新体制運動が称揚され、写真界にも翼賛団体として「日本報道写真家協会」「興亜写真報国会」などが設立されていく。こうした世の空気が写真趣味にとってどのようなものかは、40年11月号の、大江素天による記事の表題を読むだけでもわかるはずだ。求められたのは「芸術写真と新体制 国家意識・民族意識の協調」なのである。

6年前に成沢が否定した「芸術にまで干輿」されることに対して「勃然として反発するだけの輿論」は起きず、本誌がそれを提起することもついになかったのである。